2007年10月11日

竹田城跡・・兵庫 和田山町

 朝駆けして中国自動車道 加西SAに6時頃到着。
東の空には朝焼けのちょっぴりの雲、天気は持ちそう。

m4786.jpgm4799.jpg福崎ICから播但連絡道路へ入り、全国屈指の山城遺構という竹田城を目指す。
 朝来(あさご)市に入るころから、一面霞か雲か、和田山ICを下りて見上げるが竹田城のある古城山(353.7m)を含め高いところは雲?の中。

m4804.jpgm4809.jpg 上を走ってきた播但連絡道路のアーチ橋(虎臥城大橋)をくぐって山道を上る。
 鹿防止の柵の周りを草刈り中のお父さん達・・お邪魔します。
「これは霧だよ、晴れればここからでも城は見える。」
「こういう日はきれいな雲海が広がっているよ、もう晴れてきて消えかかっているが・・。」
「石垣が虎が臥せているように見えるので「虎臥(とらふす)城」とも、雲海に浮かぶ「天空の城」ともいわれてますよ・・。」
m5109.jpg 駐車場に8時半頃到着、雲海はみるみる消えてゆき快晴、見晴らし良好。
 竹田城は嘉吉年間(1441~4)に守護大名山名持豊(宗全)の家臣太田垣が砦として築き、その後文禄年間(1592~5)から今のような豪壮な石垣積みの城郭となり、慶長5年(1600)に城主を失い廃城となったという。

 健脚向きのAコース、高低差80m程もある急でしんどい登城コースを登る。
 木立の間から朝の太陽が、消え残った朝霧に幾筋もの光となって射す、一瞬幻想的な世界が・・「天空の城」への期待感が高まる。
m4833.jpgm4838.jpg いきなり現れる見事な石垣群に圧倒される・・感激・・。 石垣は安土城、姫路城と同じ穴太(あのう)積みで構築され、ほとんど手をかけずに当時のまま残されているという。

m4925.jpgDSCN4959.JPG 石垣の端には柵などは一切なく下は千尋の谷、天守に登るのも木の梯子で。
 駐車場にあった注意書き「お願い 当地においての盗難・事故等については一切の責任を負いませんのでご注意ください。和田山町観光協会」が頭をよぎる。

 のんびりBコースから登ったというお母さん。大手門辺りの石段で、「よいしょっと・・なんて高い石段・・昔の人は足が長かったのかね・・。」
m4947.jpgm4959.jpgm4938.jpg

m4931.jpg♪ドン・・ドン・・♪ドンシャカ・・ドンシャカ・・
町から風に乗って太鼓や、ブラスバンドがここまで聞こえてくる・・竹田秋まつりという、帰りに覘いてみよう。
♪春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして ~
  竹田城、まさに天空の城、来た甲斐がありました。・・ありがとうございます。

posted by damp at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年09月07日

名神 多賀SA 敏満寺遺跡

 名神高速道路多賀SA(サービスエリア)で思いがけない歴史のミニトリップ。
お盆休みの終わりのころに寄った多賀SA、上り名古屋方面はほぼ満車、反対側の下り大阪方面は空き空き。
m4067.jpgm4068.jpg

 とても気持がよい水でした!。清潔な洗面所で手を洗ってから外へ出ると、係の方が生け花の最中・・お邪魔します。
「おみなえし、夾竹桃、バラですね。みんな近くでとれたものです。
 このあたりは水が良いですから花もきれいに・・ここ多賀SAも地下水を使ってます・・」・・
m4032.jpgm4031.JPG

 多賀SAから名神高速に沿って南の胡宮(このみや)神社、青竜山にかけての一帯は、縄文時代から近世に至るまで続く複合遺跡があり、遺跡の中心は敏満寺(びんまんじ)に関する遺構群だという。
m4066.jpg 敏満寺は平安時代に開基されたと伝えられ、その後発展を続け強大な勢力と経済力により軍事的な性格を強めてゆく。
 多賀SAの北側には要塞化した寺院跡地が公園「ぷらざ 多賀の湖」として残されている。そこは周囲に土塁、空堀を配した砦、城のようであったという。

 広い園内には木製の遊具やベンチ、水飲場等が整備されている。
暑いのと、SAの北の端なので人影もまばら。
 譜面台?のような台にはこの地方縁の歴史上の人物を紹介するプレートが埋め込まれていた。
一回りすれば歴史のミニトリップ。
m4053.jpgm4052.jpg

 小野妹子(生死年不祥)(志賀町)飛鳥時代の政治家遣隋使として中国と交流・・。
 お市の方( ?-1583)(小谷城)織田信長の妹で湖北の浅井長政と政略結婚・・。
 豊臣秀吉(1537-1598)(長浜城)天正元年(1573)に今浜(現長浜)城主・・。
 中江藤樹(1608-1648)(安曇川町)陽明学者で近江聖人として尊敬・・。
 井伊直弼(1815-1860)(彦根城)近江彦根藩の第16代藩主。江戸幕府の大老・・。・・・・

 SAには高速のバスストップがあるので、下の一般道への歩行者(乗客)用通路がぷらざの横に設けられている。
m4083.jpg 下の道へ帰られるご夫婦に・・こんにちはお近くですか・・。
「お隣の彦根からです。ここへは月2~3回孫のおやつを買いに来てます。遺跡はよくわかりませんが近くの多賀神社はよくお参りに行ってます・・。」
「高速バスで出かけるときはここから乗ります。この辺りは水が良いですよ、近くにはビール工場もありますよ・・。」
 下の道から見上げる敏満寺遺跡(城址)は、この地域の歴史を語りかけてくれているように感じた。
 多賀SAで、束の間の歴史の旅・・きれいなお花とお水、楽しいお話、ありがとうございます。

続きを読む 敏満寺の歴史
posted by damp at 01:49| Comment(0) | TrackBack(2) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年08月24日

舞鶴城公園・・津奈木城址

 国道3号線をひたすら北上する・・薩摩川内で久見崎盆踊り想夫恋を観ての帰り道。
m3989.JPG  舞鶴城だって!「舞鶴城公園 津奈木(つなぎ)町」の案内板を発見、矢印に誘われて左折。
 がっちりコンクリート舗装されている、狭いくねくねの山道を1km弱登ってやっと舞鶴城公園駐車場へ。
 今日も猛暑、車は私の一台だけ、人影もない。・・突然・・若者グループに曹禺。
「下から歩いて上りました・・ハイキングです・・えっ城址?何もなかったですよ・・。」そうかここは城址ではなく舞鶴城公園なのだ・・。

m3987.JPGm3984.JPG

 舞鶴は城の雅称の一つで、福岡城(福岡県)、三春城(福島県)、甲府城(山梨県)など八箇所の城が舞鶴城と雅称されているという。
m3936.JPG ここは津奈木城。「津奈木郷土史」によれば“此城敵が攻めれば空中高く舞揚がるので一名舞鶴城とも言われてゐる。城の周圍は斷岩絶壁にていかなる勇将猛卒と雖も登るに由なく・・“とある。
 南北朝時代の建武元年(1334)村上顕興(名和氏)が築城。
 その後の争乱などで、城主は相良氏、深水宗方ら幾多に変遷することになるが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以後は加藤清正領となり清正の重臣が津奈木城主を勤めたという。
 永きにわたり薩摩国境近くの交通の要所として重視されてきた津奈木城も、元和元年(1615)一国一城令により、姿を消したという。
 城址は駐車場の前のテレビ塔のある一番高い峰が本丸、北東の峰が二の丸とされている。

m3910.JPGm3907.JPG
 本丸への登りは急峻で、整備されたルート以外は岩が露出していてまさに・・登るに由なく・・堅固な城である。

 本丸は夏草と雑木が生茂り今は展望はあまり利かないが・・眺めは良さそうである。
木々の間から遠望する津奈木湾、八代海が真夏の太陽に美しく輝いて見えた。
 本丸には“この本丸広場の一部は地元縁の方々の御寄贈による土地である“と町長の感謝の意を込めた碑も建てられていた。
 周囲に石組みも見られたが遺構かどうかは定かではない。
m3921.JPGm3912.JPG

 津奈木城は断崖絶壁に守られ、空中高く舞い揚がりそうな城であった。

  ♪天井影は 変らねど 栄枯は移る 世のすがた 写さんとてか 今もなお ~
                        荒城の月


 ありがとうございます。

続きを読む「うつくしかね!」津奈木町
タグ: 城址
posted by damp at 13:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年07月28日

古宮城址・・新城 作手

 甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とするため重臣・馬場美濃守信房に命じて元亀2年(1571)に築城したといわれる。
 作手奥平氏の亀山城川尻城との中間に位置する古宮城。
古宮城は周りの城とは違った独特の雰囲気持つ山城である。
m3035.JPG 小山全体を幾重もの濠、土塁で要塞化した素晴らしい縄張りで、東側には広い馬場も備えているという愛知県で唯一の甲州流築城術といわれる。
 要害を誇ったこの城も短命で、2年後の天正元年(1573)には奥平氏、徳川氏の攻撃をうけ自焼し陥落したという。
 梅雨の晴間、局地降水確率20%。冬にちょっと寄ったことがあり今回は二回目の訪城。
 もうすぐ夏、白鳥神社のスギを始め周りの緑はいよいよ濃く深くなり美しい。

m3055.JPG 周りの城のように整備されてないので充分足元を固めて登城しなければならない。歴史民俗資料館で頂いたパンフレット「歴史の小径」の縄張図を頼りに登城。
 夏草が茂る林の中を行く。足元が悪く赤土で滑る。
空濠を回り込み、土塁を越えて西の本丸へ。
 複雑に入組んだ濠と土塁、防御を考え計算つくされた恐るべき築城。

m3056.JPG
 西の本丸は濠と土塁で守られた、今は昼なお暗い林の中。
 天候が悪くなってきたようで、いっそう暗くなり凄みを増す。
ここには火薬庫があったともいわれる。

カメラも手持ちのバルブでやっと写す。


 東本丸の虎口は枡形の高い土塁でしっかり守られている。
土塁の上には大ヒノキがドカーンと立っている。
樹齢600年以上、樹高29m、幹周り5.85m、市指定天然記念物(1957指定)という。
m3072.JPGm3079.JPG
 大ヒノキは築城前からここに生えていたのであろう、見上げると上の方は霞んでいる、圧倒されそうな迫力。
♪・・雲は山をめぐり 霧は谷をとざす 昼なお暗き杉の並木・・剛毅のもののふ 大刀腰に足駄がけ・・箱根八里 

m3099.JPG 東側の空濠、土塁の先には馬場と思われる平地が木々の間から見られる。
風林火山の旗の下、戦国時代最強といわれた騎馬軍団がここで駆けていたのであろう。
 ショボショボ雨が・・上から覗くだけで我慢して今日はここまで!・・撤収。

m3110.JPG わずか2年で歴史の幕を閉じた古宮城、すぐ近くには200年近く栄華を誇った亀山城。
 過酷な戦国時代の歴史を偲びつつ・・。

 霧雨に煙る古宮城址を後にした。
posted by damp at 21:20| Comment(0) | TrackBack(1) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年07月25日

甘泉寺・・新城 作手

 応安3年(1370年)に臨済正宗二十二世弥天永釈大和尚により開山され、室町幕府三代将軍足利義満から寺領の寄進を受けている由緒あるお寺。

m3111.JPG 甘泉寺の釈迦涅槃図は室町時代後期の作といわれ、県の文化財に指定(1972)されている。
 奥平貞俊が上野国から来たとき寓居したこともあり、その後も作手 奥平氏との関係も深いという。

表参道の石門(冠木門と思われます)をくぐり杉林の中を行く。

m3113.JPG 参道脇のせせらぎを聞きながら進むと、高さ約30m樹齢300年以上という見事な杉が迫ってくる。
見上げる杉の巨木の彼方に山門が美しく浮かぶ。
 本堂をお参りしてから左手に行くと、長篠の戦いで味方を救うために犠牲になった鳥居強右衛門(とりいすねえもん)勝商の墓がある。
 奥平貞昌の家臣で織田信長が葬ったといわれる。

 全国一の大きさ、高樹齢、を誇るというコウヤマキ(高野槇)。
高さ27m 樹齢600年以上 幹周り6.3m 国指定天然記念物(1972指定)になっている名木である。
 高野山から一本の杖をついて当地にたどり着いた弥天永釈大和尚が、その杖を大地に差したところ根付いて大きくなったとも伝えられている。
m3120.JPGm3121.JPG 
 全国一というコウヤマキは、コケシノブやセッコクなどを着生させ、優雅かつ剛健に聳え立ち歴史を見続ている。

・・鳴かずば殺してしまえホトトギス・・鳴かずば鳴かせてみせようホトトギス・・鳴かずば鳴くまで待とうホトトギス・・ 
 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず・・(徳川家康)

 ありがとうございます。

続きを読む 鳥居強右衛門
posted by damp at 01:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年07月22日

川尻城址・・新城 作手

 戦国武将 作手奥平氏は、天授年間(1375~80)に上野国甘楽郡奥平郷(現 群馬県吉井町)より作手にいたる奥平貞俊によってはじまったという。

m3143.JPG 貞俊はこの地で勢力人望を得て応永31年(1424)に川尻城を築いたという。
しかし手狭なためより広い亀山城を築き移っている。
 案内板によると、「・中世の平山城で標高570m比高差40mの独立丘で山上の本丸は東西75m南北32mの楕円形をしており、当時は周囲に土塁をめぐらしていたと考えられる・」「・基本的には単郭の城館だが防御性は高い・」とある。

 復元された冠木門をくぐり本丸を目指す。
 夏草が生茂り道も見えない濠の中を足を滑らせながらなんとか登る、どうやら登城ルートとは違ったらしい(汗)。
m3140.JPGm3136.JPG 

 本丸は案内板、休憩所、トイレがある広場に。周囲には土塁らしきものも見られる。
m3128.JPGm3129.JPG

 北側には一段高いところ何に使われていたのだろう・・。上には後の忠魂碑。
         霧雨に煙る作手の町が生茂る木々の間から眺望できる。
          ♪天上影は かわらねど 栄古は移る 世のすがた ~荒城の月
m3130.JPGm3132.JPG

 城址を含め一帯は「創造の森 城山公園」(平成10年開園)として親しまれているという。
森には野鳥昆虫の森、郷土の森、自然観察林、桧美林、杉美林などのゾーンが広がり散策道が整備されているという。
 ゆっくり散策してみたいところである。
posted by damp at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

亀山城址・・新城 作手

 天授年中(1375~80)上野国甘楽郡奥平郷より作手に至る奥平貞俊は、この地で勢力人望を得て川尻城を築き更に応永31年(1424)亀山城を築きこれに移ったという。

m2643.JPG 築城した初代貞俊以降・二代貞久・三代貞昌・四代貞勝・五代貞能まで五代の長きにわたり居城していた亀山城。
 城址は、本丸を中心に各種曲輪と土塁、空濠が良い状態で残されている。
 石垣は見られないが、土塁には中世築城の特徴が残されている奥三河屈指の城址という。
 東側の城下には武家屋敷があったという雑木林が広がっている。
 本丸は土塁と空濠で守られた今はきれいな明るい広場、「亀山城址」の記念碑、由来の案内板、「亀山城址の図」、あずまや(休憩所)等が設置されている。
 あれは何でしょう?大きなパネルが4枚。土塁の上に登って覗くと「亀」「山」「城」「址」 下の道を通る人達への目印?でした。
m2659.JPGm2658.JPG

 空濠を行くと虎口が・・・「虎穴にいらずんば虎子を得ず」・・・。
m2632.JPGm2636.JPG

m2673.JPG
 虎口の下の傾斜地で、強い風に揺らされ花粉を散らしながらも健気に咲いていた百合一輪・・戦国のお姫様?・・・。
 ♪峰の嵐か 松風か 訪ぬる人の琴の音か 駒をひきとめ立寄れば~想夫恋

 帰途にお寄りした歴史民俗資料館(新城市作手総合支所)で、作手の歴史のお話をいろいろ聞かせていただいた。
 ありがとうございます。

周辺には、作手の歴史の遺跡と風土を巡る「歴史の小径」(10km3時間コース)も設定されているという。
戦国ロマンを訪ねて「歴史の小径」へぜひ出陣したいところである。


続きを読む・・その後の亀山城
posted by damp at 14:49| Comment(0) | TrackBack(2) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

雨山合戦・・岡崎 雨山

 緑の風と、雨山川のせせらぎの聞こえる静かな山里、雨山。
m2508.JPG m2522.JPG
 弘治2年(1556年)8月 雨山の領主阿知波氏は駿河の今川氏より離反し織田方に組したため、今川氏は東三河の七將に命じて雨山を攻める。
野田城の菅沼定村は他の武将に先駆けて風吹(風越)峠を越えて雨山に入った。
 阿知波氏は狭い谷を利用して防御柵を設け迎え撃った。
緒戦で菅沼定村は討ち死するが、後続の東三河諸将等の大軍により阿知波氏が敗れたという。
 先駆けの菅沼定村は討ち死したが、村の人々は敵将ながら憐れに思い墓を建ててまつった。後になって雨山ダム建設の折、道にかかることになり新規に供養塔を作り、雨山合戦戦死者慰霊塔と共ににまつられている。

m2510.JPG 雨山合戦の戦場となったところは、雨山ダムができ、圃場整備もされ、合戦当時の面影も変化している。
 合戦時あったとされる阿知波氏の砦、雨山砦も遺構不詳という。
 地元の方々により「雨山合戦跡」の碑が建立され史跡としてまつられている。
 地元の方々の暖かい心を感じた日。
ありがとうございます。

m2544.JPG ♪五月やみ 蛍とびかい 水鶏なき 早苗うえわたす 夏は来ぬ~
 雨山ダムは局地的な治水,利水対策のための小規模生活ダムとして建設された多目的ダムである。また水道用水としても給水している。ダムは重力式コンクリートダムで,高さ21.5m、堤頂の長さ160.0m,総貯水容量は25万1千立方メートルという。
 放水量の少ない今は、とても静かで落ち着いたダムと感じた。ダム湖(三和湖)岸には駐車場、トイレ、星空ひろばなどが整備されている。
posted by damp at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年05月05日

鳥川城址・・ホタルの里 鳥川

ホタルの里鳥川にある天文元年(1532)に築かれたという鳥川城址へ。
 奥平貞勝の弟、次郎左衛門の城だったという。
(築城当時からほたるが生息していたか?いつ頃から生息していたかは確認していません。)
白髭八柱神社前を脇道へ入ってすぐの道路脇に「鳥川城址」の案内板を見つけ登城。

b1811.JPGb1785.JPG
縄張り図はなく全体はよく解らないが、空掘、土塁、石組みなどが残されている。
b1806.JPG
b1802.JPG

一番高いところは広く主郭と思われる。木が生茂り見晴らしは利かないが、南東側はすぐ下を通る道路の拡幅整備に伴って削られており視界が開けている。
ここから見ると、鹿や猿対策という電気柵がめぐらされた畑や、山の緑が美しい。

bm1796.JPG日当たりのよい南東側には宝篋印塔、五輪石と案内板が・・・。
ここに、戦国時代奥平一族の出城があったといわれる。
城主、奥平次郎左衛門は天正3年(1575)の長篠の戦に当地の者と共に参戦し、戦場に没したと伝えられる。
」とある・・・。

昔を偲んで山に向かってフルート、サックスを吹き始める。
♪春高楼の花の宴~むかしの光いまいずこ~栄枯は移る世のすがた~荒城の月
下からはかすかに「ガラ ガラ・・」かえる?の声、上からは「ピィチク ピィチク・・」小鳥たちの声、にぎやかなセッション・・「ホーホケキョ・・」には「ホーホケキョ ケキョ ケキョ」と口笛で・・。
日が翳りやや肌寒くなり終了。

緑の風と、人のぬくもりから元気を頂いた日。
ありがとうございます。

posted by damp at 15:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 城址 | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

夕日・・津、草生城址


m0589.JPG古い道路地図にぽつんと載っていた草生城跡を探して安濃町草生へ。
「天神様の近くにあるらしい」と地元の方にお聞きして天神様(比佐豆知菅原神社)へ。
ここには「東風ふかば匂ひおこせよ梅の花・・」の歌碑が。

でも城跡らしきものは?

m0585.JPG近くで農作業をしている姉さまに尋ねると。
「今は入り口に草が生えてしまっているのでわからないので案内しますよ・・」感激!ありがとうございます! 。
少し下ったところに案内板が草むらのなかに。
築城は戦国時代(16世紀)と推測され、丘陵に堀と土塁で屋敷地(郭)を形成しているという。
「そこのフエンスの外の草むらを入ってください・・」
草むらを昇って行くと空堀と土塁をめぐらした平地となり、所々に石組みが残っている。
一段高いところが主郭、ほかに二の郭、櫓跡などが残っている。
周囲は木が生茂り薄暗く展望は利かない。

m0574.JPG
主郭から空掘りに向かって吹いてみる・・。
♪荒城の月、平城山~・・冷たい空気に染み渡る感じ。
だいぶ冷えてきたそろそろ撤収。


m0578.JPG日は西の木々の間に、山の早い夕暮れ。

姉さまありがとうございました。

この周辺には、地元の校歌にも歌われ多くの人に親しまれている山、経が峰八百比丘尼伝説の地もあるという。
ゆっくり訪れてみたいところである。
( H18.12の日記から )
posted by damp at 12:23| Comment(0) | TrackBack(1) | 城址 | 更新情報をチェックする
人気記事